2017.7.4更新
ようこそ 筑紫古代文化研究会 へ! 奥野正男会長の講座を中心とし、同時に特別講座や、講演会及び会員の研究発表会、古代遺跡・遺物等の勉強会を開催しています。    






2017年度新年会にて
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当研究会の最近の講座(PDF)





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受賞論文特集

田口さんの論文
金印は「ヤマト」と読む
が掲載されました。












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2017.7.29情報追加更新


時間:1:30~2:00

奥野先生の勉強会

これまでの古代史研究・執筆などのの経験から、先生の歴史観などについてお話して頂きます。


時間:2:10~4:00

永井先生の勉強会

テーマ  卑弥呼 から 奈良時代 までの間
【研究対象の時代】
奥野先生は、研究対象の時代を、主として卑弥呼の邪馬台国までに絞って来られたように思います。
また、古代史でも奈良時代以降は、『古事記』・『日本書紀』ほかの文献もあって、それまでとは全く異なり、歴史の様相がかなり明白に把握できるようになります。
そこで私は、研究対象の時代を、卑弥呼から奈良時代までの間に絞りたいと思います。
すなわち、 卑弥呼と奈良時代を除くその間の時代です。と言いましても、必要に応じてその両者に及ぶつもりです。

九州王朝は存在したか?】
卑弥呼から奈良時代までの間では、「九州王朝は存在したか?」が決定的な問題となって来ます。
日本の古代を見る歴史観は、「近畿の奈良盆地に天皇家の王朝が発生し、これが卑弥呼の邪馬台国となり、倭の五王の国に成長し、奈良時代の奈良町の政権に繋がった」と見る史観が、定説となっています。
この定説に対して、私は、1964年に「神籠石」の存在を知って、その規模と分布から、「奈良盆地の近畿王朝に属しない勢力が九州に存在したのではないか?」と≪想像≫するようになりました。
そして1973年に古田武彦さんが、≪九州王朝史観≫を発表されてから、この≪想像≫は≪確信≫に変わりました。
古田さんの≪九州王朝史観≫は、「卑弥呼の邪馬台国は九州にあり、これが倭の五王の国に、そして九州王朝へと成長した。そして日本列島の宗主国として中国と通行してきたが、663年に白村江で、唐と新羅の連合軍に敗れ、日本を代表する地位を近畿王朝に取って代わられた」とする史観です。
この古田さんの≪九州王朝史観≫では、「近畿王朝の存在」を認めますが、従来の定説派の史観では、「九州王朝の存在」を認めず、王朝としては、「近畿王朝の存在」しか認めません。
よって私は定説派の史観を≪近畿王朝一元史観≫と呼んでいます。そして、奈良朝政権によって創られた『古事記』・『日本書紀』自体が正にこの≪近畿王朝一元史観≫によって書かれているのです。

さて、古田武彦さんの≪九州王朝史観≫が発表されて、40年以上経ちますが、古代史の学者は、古田さんの≪九州王朝史観≫を完全に無視し、反論していません。
私は、自説と二律背反の関係にある説に反論できぬ限り、自説を継続して述べることは出来ないと考えております。ですから、こうした40年に亘る定説派の皆さんの姿勢は≪学問の姿勢≫であるとは思いません。日本を代表する学者を初めとして、学者という学者が総ぐるみでこのような姿勢を採り続けているとは信じ難い事態です。
そこで、卑弥呼から奈良時代に至るまでの間に、「九州王朝は存在したのか? しなかったのか?」について、私なりの視点から徹底的に考えてみたいと思います。
私が従うのは、≪事実≫と≪論理≫のみです。私は、私の主張が成り立たないとする主張は全て採り上げて反論していきたいと思います。

なお、私は、九州王朝があった直接証拠として、次の四つの歴史事実を考えています。
1.『三国志魏志東夷伝』の短里
2.隅田八幡宮人物画像鏡
3.九州年号
4.神籠石
この中で私が、「九州王朝があるのではないか?」と考えるに至った原点が、神籠石です。
よって神籠石からお話しさせて頂きたいと思います。

神籠石の説明は、文字をクリックしてください。
また、上のNew Infomationでも参照できます。





永井正範先生の『勉強会』29年度上期(2017年4月~9月)予定

『邪馬臺国か、邪馬壹国か』
[ 1 ]『三国志』の邪馬壹国
[ 2 ]『後漢書』の邪馬臺国
 ( 1 )『後漢書』の卑弥呼の国の記事
 ( 2 )『三国志』魏志倭人伝と、『後漢書』倭伝の違い
 ( 3 ) 陳寿の『三国志』の【會稽東治之東】の意味 と 范曄の改竄の手口
 ( 4 ) 范曄が『後漢書』を書くのに、『三国志』を改変して用いた訳
 ( 5 ) 古田武彦氏の見る ≪范曄の倭国≫の解釈の検証
[ 3 ]日本で邪馬台国の語を用いる訳
[ 4 ]現代の日本の学者の見解 ―『後漢書』の邪馬臺が正しい― の検証
[ 5 ]唐代の中国の学者の見解 ―『後漢書』の邪馬臺が正しい― の検証
 ( 1 )『後漢書』の邪馬臺国が正しい
 ( 2 ) 中国史書の『後漢書』主義
 ( 3 ) 倭国の都の現地音の邪摩堆 が 『後漢書』の邪馬臺と一致
 ( 4 )『隋書』と 『北史』の【邪摩堆、則 魏志 所謂 邪馬臺 者也】の意味
 ( 5 )『後漢書』李賢注の 【案今名、邪摩惟 音之訛也】の意味
[ 6 ]私の見解 ― 中国と日本の学者の≪錯覚≫ ―
 ( 1 )「邪馬壹国か、邪馬臺国か?」を考える上で≪最重要の問題≫
 ( 2 )『三国志』の時代に≪邪馬臺国は有り得ない≫
 ( 3 )『三国志』に≪壹と臺字の入れ繰りは無い≫
 ( 4 )「隋唐音」と「南朝音」の相違 と ≪隋唐代の学者の錯覚≫
 ( 5 ) 中国と日本における漢字の読みの違い と ≪現代の日本の学者の錯覚≫
 ( 6 ) 中国語と日本語の音韻の相違 と ≪中国と日本の学者の錯覚≫
 ( 7 ) 邪馬臺は(ヤマト)と読めるか? ≪日本の学者の錯覚≫
[ 7 ]陳寿の「邪馬壹国」の≪意味≫
 ( 1 ) 漢字「壹」字の≪歴史的由来≫
 ( 2 ) 陳寿が「壹拝、邪馬壹国、壹與」の熟語を用いた≪訳≫
 ( 3 )「倭」と「委」の≪読み≫と≪意味≫
 ( 4 )「倭(ゐ)」 と 「壹(いっ)」 の≪音韻≫について
 ( 5 )「邪馬-壹-国」の熟語の≪構成≫
 ( 6 )『漢書』の「罽賓国」の場合
 ( 7 )「スフィンクスの微笑」
 ( 8 )『三国志』において、「邪馬壹国」が担う≪役割≫



当【筑紫古代文化研究会】は、お蔭様で2012年に発足40周年を迎え研究会創立40周年講演会も行いました。
日本の国家が成立する古代について、遺跡・遺物や文献などを通じて学ぼうとしている人達の集まりです。
日本の古代のみならず、広く東アジア、先史時代も対象としています。

具体的な研修活動
奥野・永井先生の研究内容を中心に講座形式で勉強会
●会員による発表やビデオ鑑賞等
●外部から講師を招いて講演会
●会員による発表やビデオ鑑賞等
●国内の遺跡や博物館の見学会(研修旅行)
●会員参加による歴史放談会(昼食をとりながら・・)等々
●講座内容のDVDをお届けします。
●その他、会員の意見で研鑽と親睦を目的とした企画
●講座終了後の課外授業(飲み会)・・・自由参加
●会員外の方も自由に参加出来ます。

月例研修会(原則として第2、4火曜日13:00~16:00)
開催場所は、原則として福岡市天神の大友ビル2階

入会申し込みはこちらへ
E-MAIL watanabet104@gmail.com
世話人:渡部 武彦



開催場所:正友ビル
〒810-0001 福岡県福岡市中央区天神4丁目5−20


研修旅行
2017年6月5日から三日間の日程で、筑紫古代文化研究会のメンバー総勢12名で、奈良へ行ってきました。
飛行機で伊丹空港に着いたら永井先生が旅行行程で私たちが理解しやすい様、資料を作って迎えに来ていただきました。
すぐに、レンタカー2台に分乗し、密度の濃い旅行ができました。
渡部さん、田口さん、大変な運転、有難う御座いました。
天気もよく、多数の大古墳や神社、県立橿原考古学研究所の見学など、とても楽しい旅行になりました。
企画して頂いた渡部様をはじめ参加者の皆様、ご苦労様でした。
また、永井先生の案内や説明で、実際に現地で勉強することができました。
以下、写真を掲載しています。

尚、田口裕之さんに感想文を書いて頂きました。ありがとうございました。
以下に写真掲載しましたのでクリックして下さい。
詳細については、別途、編集してHpで紹介します。ここでは、雰囲気だけ味わって下さい。

田口裕之さんの感想文